とり in the world

東北出身、27歳の荷物多くなりがち系女子です。前までメルボルンです。今は東北です。いつかあなたと、世界のどこかで会えることを楽しみにしています。

14歳の3月

どうもみなさまこんにちは

tockeyです

まったく更新していないブログですが

今回は旅行やメルボルンとは違うトピックで更新します

それは「東日本大地震」です

今日で10年経ちますね

そこで、あのとき14歳だったわたしをふりかえってみます

どれくらいあの時のことを覚えているのかを確認するために

いつどこで震災にあったかはすごく覚えてます

あの時わたしは体育館で次の日に控えた先輩たちの卒業式のために

地べたに這いつくばってレッドカーペッドを敷いてました

はまると凝ってしまうわたしは

「絶対たごませない、、、まっすぐなレッドカーペッドを敷いてやる、、」

と無駄に張り切っていたため、体育館シューズを脱いで任務に集中していました

なにかが聞こえる

わたしだけかな?と思い顔を上げると、体育館にいる人みんながわたしと同じ顔をしてました

その直後でした

効果音にするとまさに「ドーーーーーーン」

綺麗に並べたパイプ椅子が吹っ飛び

電気が大きく揺れる

経験をもとに想像できるレベルを超える地震でした

「早く出なさい!」

叫ぶ先生と違う意味で叫ぶ生徒

一斉に校庭につながる出口に向かうみんな

もちろんわたしも向かいました

しかし、出口まであと15メートルというところで気づきました

靴、履いてない

気づいた瞬間に人の流れに逆らって

レッドカーペッドの横に置かれた体育館シューズをひったくり

遅れながらも無事体育館から脱出しました

あのときの判断は決して10人中10人に褒められる行動だとは思っていません

しかし、わたし個人的にはいい判断だったと思っています

なぜならそのあと、季節外れの雪が降ったからです

体育館から全員が避難し、

今いる人でクラスごとにまとまり、様子を見ることになりました

先生たちはラジオを聞いたり校舎の様子を見にいったり保護者に連絡をとったりしてたと思います

その間も容赦なく震度3や4の余震が頻繁に発生していました

自分で言うのもなんだと思いますが、ピンチに冷静なタイプだと思います

感じたことのない恐怖に泣き始める生徒もいる中

わたしは「怖い」よりも「今なにをするのが一番いいんだろう」を考えていました

とりあえずバラバラに余震を耐えるよりも

グループになった方がいいなと思ったため、クラスメイト何人かで手を繋ぎ

輪になっておくことにしました。

(あの時ほんとは「え、だる」とか思ってた人いたらごめんなさい)

ただでさえ頻繁に起こる地震で精神的に辛いのに

校庭に避難してからすこし経つと

12月に降る雪と遜色ないレベルの雪が降り始めました

東北といっても3月は春に含まれ、雪が降ることはめっっっったにありません

あの時靴を取りに戻ってなかったら

きっと身体的に支障が出ていたと思うので、わたしはあの時の選択を後悔していません

先生が校舎と体育館の安全を確認後、わたしたちは一度教室に戻り

自分の荷物をとって体育館に戻ることになりました

正直そこからはあまり覚えていません

しかし気がつくといつの間にか生徒と先生だけでなく

避難してきた近所の方で体育館はいっぱいになっていました

中学校が地域の避難所に指定されていたためでした

「なにかあったら小学校で待ち合わせよう」

これが我が家の決まりでした

そのため、先生に事情を説明し小学校に向かおうとしましたが

保護者が来ない限りだれも体育館から離れることはできないと言われました

これはまずい

善良な中学生なので携帯も持っていません

そのため中学校から離れられないからピックアップしてほしいと伝えることもできません

これ下手したら明日まで会えないとかあるのかな、、、

このとき初めて不安を覚えました

しかし、そんな懸念を察してくれたかわかりませんが

夕方くらいにお父さんが中学校に迎えにきました

無事家族と合流、家路につく途中でお母さんも、二人の妹も、愛犬も無事だと聞きました

取り決め通りわたし以外の家族はすぐに小学校に集合したようですが、

もしかしたら生徒一人で返してくれないかもしれないと思い、迎えにきたとのことでした

途中、個人経営のコンビニに入り、買えるだけの食料と飲み物を買いました

そのお店ではワインも売っていたのでしょう

地震の影響で全て割れてしまい、店内にはアルコールの匂いが充満しており

大人はなんでこれを飲むんだろうと呑気に感じたのを覚えています

なにせこの時は、「とても大きな地震が発生した」

ただそれだけの認識だったからです

無事に家に着きましたが、家自体は無事とは言えない惨状でした

住んでいるマンションの壁には亀裂が入り、

マンホールは地面から歪に浮き上がり、

自分の部屋は元の配置が思い出せないレベルで物が散乱し

冷蔵庫はひとりでに2メートルほど前進

食器棚は倒れ、割れ物はほぼ全滅

電気もガズも水道も止まっていました

その日の夜はとりあえず家で過ごすことにしました

電気が使えないので、両親の結婚式の時に使ったと言う大きなキャンドルで灯りを確保しました

学校からもらった乾パンを食べながら、今日自分の身に起こったことを反芻していましたが、

ラジオをつけた時に、わたしが経験したことは

まだ震災による被害のほんの一部であることを知りました

ラジオから流れてくるのは

震度7マグニチュード9の大地震

岩手・宮城大地震

火事が多発

津波が町を襲っている

原子力発電所で事故が起きた

それを聞いた時、この地震がどれほど大きな被害をもたらしたのかをやっと理解し始めました

でもその理解はほんのすこしでした

これまで津波による被害を目の当たりにしたことがなかったため

大きな波が迫っているというイメージしかできていませんでした

実際の映像を見たのはいつだったのか、覚えていませんが、映像をみて

そこでやっと、はじめて、完全に

東日本大地震がどれだけの災害かを認識しました

昼の映像では灰色の水に所狭しと浮かぶ家、車、瓦礫

夜の映像ではヘリコプターからみた、炎で真っ赤に燃える海

レポーターの差し迫った声

ニュースに入り込んだ「早く逃げろ」と叫ぶ誰かの声

福島原発が爆発し、放射能が漏れたという速報

ショックでした

同じ県の、すこし海側では

町が波と瓦礫に飲み込まれているという現実に

目の前で、Liveでニュースが流れているにも関わらず

まるで映画を見ていると錯覚するくらい

想像の範疇を超える被害を画面越しに目の当たりにしました

「わたしって冷静なタイプかも」とか思っていましたが、

もしあの時、

地震が起こった瞬間にこの場所にいたら

わたしはあの時と同じように冷静でいられなかったと思います

わたしがすむ地域は、海から離れていたため、浸水の被害はありませんでした

しかし、家から歩いて10分のところにある線路を挟んだ向こう側には水が来ていたようで

線路沿いのマンションの1階は泥でぐしゃぐしゃだったそうです

一晩あけた12日、たしかこの日に避難所に避難したと思います

避難所には多くの人がいて、みんな慌ただしく電話したり、

逆になくなった充電を回復させるために、使えるコンセントの周りに集まったり

避難所を走り回る子供に怒鳴るおじさんがいたりと

非日常感が強く、辛かったです

ちょくちょく家に戻り、片付けを進めたので、たしか避難所に行ったのはこの時1回だけでした

中学校が避難所として使われており、そこに近所の住民が水を汲みに殺到してるという情報を

どこからか聞きました

家にいてもやることはあまりなかったわたしは、友達を一緒に中学校でボランティアをしていました

学校の外周の半分に到達するくらい、本当にたくさんの人が水を求めて中学校に来ていました

しかしある時、お父さんに「原発で事故があって放射能が漏れているらしい。危ないからもう外に出るのはやめなさい」と言われました

その時のわたしは「放射能なんてほんのすこしだろうし、中学校には多くの人が水を求めてやってきてるから手伝いに行きたい」と言い返しました

しかし、お父さんの意思は固く、そこからはボランティアに参加できませんでした

原発の影響で、福島では立ち入り禁止区域ができるほど、

市町村をあげた避難が行われていることをあとから知り

たとえ宮城に届く放射能がほんのわずかだったとしても

お父さんの懸念はあながち間違いではなかったことを知りました

震災から数日後、電気と水、それからガスと回復し、徐々に日常生活を取り戻せるようになりました

身の回りが落ち着いてから、家族で車に乗り、

沿岸に行ってみることにしました

不謹慎だと思う方もいるかと思いますが、

震災から何日か経過した今、ニュースでやっていたあの場所はどうなっているのかを確認したかったのです

実際に津波の被害を受けたエリアに行ってみると、画面越しに見た時に感じたものとは

また違った絶望がありました

片側一車線のみ通行できるようになった車道の両サイドには

1メートルほどの高さで固まった瓦礫の大地が、

なんの遮りもなく、はるか遠くまで続いていました

海水浴のできるビーチの近くに、まるで壁のように並んでいた防砂林も

津波によってほぼなぎ倒され、数えるほどしか立っていませんでした

瓦礫の中に転がる車には、スプレーで大きく「×」が描かれたものが多くありました

「なんで車に×マークがついてるの?」と聞くと、お父さんは

「車に亡くなってる人がいないかをチェックした後だと思う」と言いました

すぐ近くで、上下逆さまになっている車の中に

もしかしたら人がいたかもしれない

それを自覚すると怖くなり、顔を上げていられなくなりました

音でも、映像でもなく、自分の目で震災の被害を確認し、

地震津波の恐ろしさを初めてちゃんと理解した瞬間でした

あれから10年が経ち、14歳だったわたしは24歳になりました

あんなにも衝撃的な経験だったにも関わらず、

10年経つとここまでしか思い出せないんだと

このブログを書いて記憶の風化を実感しました

しかし、わたしのとっては震災での経験を

この10年で良い方向に向けられたと思っています

震災が起き、復興を想ったことで国が「Support Our Kids」が発足し

震災でなにが起きたのかを伝えたいと思ったことで、SOKの3期アメリカ組の一員として

初めて海外に行き

SOKで海外に行ったことで、素敵な友達ができて、より海外への興味、憧れが強くなり

その憧れから大学時代にメルボルンに留学することとなり

留学したことで今海外に携わる仕事に就いている

辛く、苦しい経験ではあったけども

そこから這い上がろうとする、わたしを含むすべての人の行動のおかげで

今の目標ができました

被災地に住むわたしですら、

記憶の風化が進んでいるので

被災地にいなかった人たちが持つ、東日本大地震へのイメージや意識は

もっと薄いかもしれません

毎日思い出す必要はないし、常に悲しい気持ちでいる必要はないと

個人的には思っています

ただ、せめて3月11日が来るたびに、思い出してほしいなと思うことはあります

・防災グッズを用意しとく

冬にこれくらいの規模の震災が起こると本当に厳しいので、カイロを入れておくべきです

・非常食を用意しておく

取り越し苦労なら良いと思うんです、でもなかったとき後悔だけではすまない可能性もあります

・携帯充電器は持っておく

いつ被害にあっても連絡手段を常に持って置けるように、持ち歩いといたほうがいいと思います

・同居人がいる場合、災害が起きた時にどこで落ち合うか決めておく

ネットが使えなくなると連絡が取れないので、決めておいたほうが安心です

こんな偉そうなこと言えるくらい、被害を被っていなかったかもしれません

わたしよりもっと辛く、苦しく、悲しい10年を乗り越えてきた人もたくさんいます

しかし、いち被災者として、言えることは言わせていただきました

備えあれば憂いなしです

自分の身に実際に起きた時に、すこしでもパニック要素をなくすためにも

防災グッズと非常食は用意しておいてほしいです

また10年経ったら、今よりもっと記憶が風化していると思います

わたし自身、その度にこのブログを読み直して

いつ来るかわからない災害に気を配り続けるようにします

ただ、願わくば

コロナが収束するまでは大きな地震がきませんように